才能で食べていく覚悟の続きのような話です。
漫画家でもアニメーターでもいいけど、好きな道がみつかって、その道で認められて食べられるようになったとして、そこでぶち当たる矛盾というのがあるというのに、夢を追っている途中の人は意外と気がついていないのではないかなという話。
というのはですね、「食べる」ということはすなわちお金を払ってもらうということなんですが、例えば漫画家の場合お金を払うのは出版社ですが実際にはその先に読者がいて、読者が払ったお金をいただくことになるんですね。それはつまり「自分の描きたいもの」ではなく「読者の読みたいもの」を描かなければならないということなんです。これは漫画家に限った話ではなくて、要するに商売というのは全てそうなんですね。買ってくれる人が欲しいものを提供するので対価がもらえる。当たり前のことのようですが、漫画家になりたい人って「自分の描きたいものを描きたい」という地点に居る事が多いと思うんです。いや、もちろんそれはそれで正しいんですよ。それすらないようだと、余りにも薄っぺら過ぎてデビューにたどり着けないだろうし。でも苦労してデビューした先には、自分の描きたいものではなく、読者の読みたいものを描かなければいけないという。これは一種の矛盾ではないかと思うのです。
もちろん、自分の描きたいものを描きたいように描いている漫画家さんもいらっしゃいます。しかしそれは稀有な例だと思います。たまたま自分の描きたいものが読者の読みたいものと一致していたというわけですから。しかし、それはあくまでもたまたまの話です。あと、信者的なファンがついていてその漫画家の描いたものであれば落書きでも何でも受け入れてもらえる状態になれば、自分の描きたいものを描いて食べられるようになると思います。しかし、それも稀有な例だと思います。
あとまあ、じゃあ読者に媚びたものを描けば食えるのかというと、それはそれで違ったりするので創作の世界というのは厳しいのですけれどね。何をどうすれば売れるのかという方法論が確立していない。将来は確立されるのかもしれないけれど、少なくとも現代においては確立していない。だから、売れっ子漫画家さんであっても、どうやったら売れるか常に試行錯誤しているのが現状だと思います。
だから、本当に描きたいものを描きたいという人は、プロにならないという道を選ぶこともあります。そうなるともう漫画家とは言えないかもしれませんが、一種の芸術家ですね。でも作品作りを突き詰めていくと、そうならざるを得ないというのも一種の真実だと思います。
これに関して興味深い実例として【再録】たけくま月評(第13回)丸山薫インタビューという記事があります。高野文子さんという漫画家はあえてセミプロであり続けて、自身として完成度に納得のいく作品を作り続けていると。まあ、だからと言ってプロの漫画家さんが粗製濫造しているわけではないのですけれどね。
才能で食べていけるようになるまでも大変ではあるのですが、食べていけるようになってもこのような矛盾が待っているよというお話でした。
(2019/4/10追記)
この話って、漫画家でもバンドでも、モノを作る系には常について回る話ですよね。 売れるかどうか気にせず自分たちの好きなモノを作り続けるか、それとも売れることを目指して売れるものを作るか。 自分の好きなものを好きなように作るために、あえてプロを目指さずに趣味として続けるという戦略もあります。 バンドの場合、メンバーの方向性の違いで解散したりってのもありますよね。
というようななかでふと思ったんですが、売れるようになるってことはその対象を好きになる能力が高い人ということは言えるんじゃないでしょうか。 もともとは好きでもなんでもなかったモノだけど、プロとして作る対象になったらそれが後付けででも好きになれる。 そんな能力がある人がプロになれる、そんな能力が高い人がプロとしての才能だったりするのかなと思った次第。 言い方を変えれば、好奇心旺盛だとか、食わず嫌いをしないとか、そういう性質とも言えますかね。