散髪屋のおっさん

2011/4/13作成

私が子供の頃にお世話になった、散髪屋のおっさんがいる。

おっさんと言っても、私が子供の頃に既にじじいだったけど。あとから聞いた話だが、私の祖父の友人だったそうだ。

祖父は早くに亡くなったんだけど、おっさんはわりと長生きした。90過ぎまで生きていたんで、十分長寿だったと思う。私も成人してから、寝たきりになったおっさんを見舞ったことがある。そのとき会ったのが最期だけど。

で、これまた聞いた話だけど、そのおっさんには若い頃に勘当した子供がいるらしい。勘当したのも相当昔なんで、もう何十年も会ってないということだ。

でまあ、年取っていよいよ最期が近づいてきたかなぁという頃になって、近所の世話焼きの人たちが「子供の勘当を解いて、会ってやってはどうか」と何度も勧めたそうだ。

気持ちはわかる。子供にとっても、勘当を解いてもらうのはありがたいだろうし、年寄りにしても最期に自分の子供に会えるのは嬉しいことだろう。外野がそう想像するのは、別におかしなことではない。むしろ、そう勧めるのは親切心からだろう。

しかし、そのおっさんは結局最期まで、うんと言わなかった。勘当を解かなかった。子供にも会わなかった。そして死んだ。

なんで勘当を解かなかったかの理由まで聞いてないので、以下はあくまでも私の想像。

もし勘当を解いたとしたら、周りの人々はよかったねと思うことだろう。子供も喜ぶかもしれない。しかし、おっさん本人はどうだろう。

勘当を解いて和解すれば、これまで何十年と勘当してきたことを否定することにならないか。それは、おっさんの人生の大部分を否定することになるかもしれない。

更に想像を飛躍させれば、もし勘当してなければ、今頃孫ひ孫に囲まれて、優雅な老後をおくっていたかもしれない。少なくとも、一人暮らしの老後ということはなかっただろう。

勘当を解くということは、そういう"if"を受け入れるということだ。そして、その"if"は決して成り立たない。今から何十年も前に戻ってやり直すことなんて出来ないんだからね。

そんな"if"だけを今更受け入れるということは、残酷でしかないのではないだろうか。

だから、おっさんは最期まで勘当を解かなかったんではないだろうか。

というのが私の想像。

長々と書いてきて何が言いたいかというと、何が幸せかはその人でないとわからないという、ありきたりの結論にもっていきたいわけです。そう書いてしまうと、身も蓋も無いが。

だからと言って、おっさんが幸せだったかというと、それも疑問ではあるわな。

おっさんは自分が出した結論に従ったのは確かだろうけれど。

なんというか、人が生きて死ぬということには、当然の事ながらドラマがあるわけで、そんな簡単に割り切れるもんではないんだよなぁ。凄く当たり前の話だけど。