国立国会図書館には初代館長金森徳次郎氏による「真理がわれらを自由にする」の書が掲げられてるそうです。って、実はちゃんと見たことないんですけどね。国立国会図書館には何度か行ったことがあるんですが。今度行ったときに改めて見てこよう。
この言葉を私は座右の銘にしています。正確な意味は知らず、自分勝手な解釈をしてでですがね。今更だけどあとで意味もちゃんと調べておこうと思いつつ、ここでは勝手な解釈に基づいた話を勝手にしてみようと思います。私の個人サイトなんで別にいいでしょ!って、誰もあかんって言ってないんですけどね。
さて私なりの解釈です。世の中、何かと判断しなければいけないことがたくさんあります。小さなところでは個人的なことや家庭内のことから、仕事での判断もあります。チームや会社全体での判断もありますし、さらに広げれば自治体や国家レベルの判断もあります。その判断をするとき何をもとに判断するかというと、情報なんですよね。様々な情報が必要になる。当然、その情報は正しいものでなければなりません。誤った情報を元に判断したら、その判断は誤ったものになるでしょう。例えて言うなら戦場での判断です。斥候が敵軍の情報を誤って報告したとしたら、よほど戦力が上回っていない限り戦闘では負けてしまいますよね。斥候が正確な情報をもたらせば勝率を上げることも出ますね。判断というのはそういうものです。正確な情報がないといけない。
この正確な情報が真理だと思うんですよ。もちろん情報が正しければ必ず正しい判断になるとは限りません。判断には意志も関わってきますからね。保守派の人とリベラルの人ではそれぞれ判断は違うでしょう。でも元にする情報は正しいものであって欲しい。それくらい正しい情報、つまり真理は大切なものだと思うんですね。
この場合の正しいとは何かという議論はあります。保守派の人にはリベラルな情報は誤りに見えるでしょうし、リベラルの人には逆もまた同じです。一つは事実でしょうかね。事実の集まりである統計数字なども正しいでしょうね。だから誤った統計情報は、誤った斥候の報告と同じようによろしくない。そうした事実以外の情報は、多様性が必要です。要するに、今議論に参加してる人が思いつくところを全て出し合う。そうして出てきた多様な意見を交換することによって真理に近づいていくことができる。多様な意見を保証するためには言論の自由が何よりも大切だと思っていますので、単に自分が不快な表現だという理由だけによる表現規制には絶対反対です。
多様な意見を交わすには当然ながら批判もあります。批判なき政治と仰った国会議員さんがいらっしゃいましたが、それもおかしいと思います。批判は絶対に必要。誹謗中傷やヘイトスピーチはもちろんダメなんですが、それらと批判は違うものですからね。
こうして真理の提供が保証されることは大事なんですが、もう一つ大事なことがあります。それは真理を読み解く知性です。いくら正しい情報が提供されても、それを解釈する知力がなければ猫に小判ですよね。だから真理の保証と同じくらい、教育も大切だと思っています。ある程度の読解力や論理的思考力を多くの人が身につけるようになれば、世の中は大きく変わるんじゃないかなと思っています。
ということで、真理と教育の二つが大切だと思っていますので、そのために自分も何か出来ればいいなぁと思っています。このサイトで駄文を認めているのも、情報の多様性の一助になればいいなぁという思いも実はあっったりもします。そう簡単なことではないとは思いますけどね。