なんとなくパソコン通信について書きたくなったので書いてみます。といっても、パソコン通信の歴史とか評論とかってわけではなくて、単に自分の体験をだらだらと書きつられるだけなんですけどね。そんなものでも証言としては価値があるかなぁと思いつつ、もう30年も前の話なので記憶も定かではないのでイマイチ価値がないかもしれないとも思いつつ。まあ自分の個人サイトなんで好き勝手書いていきましょうといつものノリで。例によって長い言い訳から始まってしまいました。
私がパソコン通信を始めたのは1989年春のことです。当時学生で大学近くのアパートに一人暮らししてましたから、まず問題になるのは電話加入権です。いつのまにかうやむやになってしまった72,000円ですが、当時はまだバリバリ現役だったわけです。貧乏学生の身にはこの7万円は非常に痛い金額なのですが、幸いなことに親が加入権を一つ余らせていましたので、そちらを使わせてもらうことになりました。非常にラッキー。
そしてもう一つはモデム。これも数万円はしますので、やっぱり学生の身には厳しい。大学の先輩が使ってない古いモデムを貸してくれまして、これまたお金をかけることなく解決しました。大変ありがたいですが、お借りしたのはアイワの1200bpsというもの。当時すでに主流は2400bpsになっていましたし、海外から9600bpsという超高速モデムを個人輸入して使ってる人もいた中ではカメのようなゆっくりした速度ですけど、それでもパソコン通信が出来るか出来ないかというゼロとイチの違いは大きなものがあります。ちなみにですが個人輸入したモデムを公衆回線に繋ぐのは実は違法です。国内で認定取れてないですからね。今でいう技適の通ってない海外スマホを使うような話ですね。まあ、私自身がやってたわけではないので、聞いた話ということで。
電話回線とモデムが用意できていよいよパソコン通信を始めます。当時、PC-VANとかNIFTY-Serveなどの大手の商用パソコン通信サービスも複数存在しましたが、貧乏学生にそんな費用が払えるわけもなく。接続先は電話代だけで済む草の根BBSになります。最初に接続してアカウント取ったのは、モデムを貸してくださった先輩の運営しているお留守番ネットというところ。お留守番ネットはいわば身内専用のホストで、メンバーは知り合いばかりとなります。ホストプログラムはWWIVでしたが、先輩が改造していて面白いことに他のホストとのメッセージ交換ができるようになっていました。仕組みとしてはインターネット上のネットニュースのようなものですね。お留守番ネットには支局があって、本局で投稿したメッセージは支局でも読めるようになっていました。このメッセージ交換システムはその後さらに他のホストとも接続を増やし最終的には数十局くらいが繋がるようになって、ついにはインターネットにも到達していたそうです。ひたすらバケツリレーなので、メッセージの到達に一週間くらい掛かってたそうですけどね。
次に繋いでアカウントを取ったのは縞縞倶楽部です。こちらはアニメ・漫画好きのいわゆるオタクが集まる草の根BBSですね。ホスト名の由来はシスオペさんがその時たまたま明治製菓のしましまクッキーを食べていたからだそうです。縞縞倶楽部での私の出席番号は177番。よくそんなこと覚えてるなと自分でも感心しますけど、それだけ当時の自分にとっては生活の中心だったんですね。
縞縞俱楽部は当時の関西でのオタク系草の根BBSでは大手だったのではないかと思うんですが、まあ所詮は私から見た偏った印象なので同時代同地域にいた他の方からは、また違った景色が見えていたとは思いますけれども。ともあれ、縞縞俱楽部はメンバーにプロやセミプロの漫画家やイラストレーターさんもいらっしゃって、かなり濃いオタクBBSであったことは確かです。オフ会も頻繁に開催されていて、時には交流のある他の草の根BBSとも合同で参加者が数十人と大規模になることもありました。
縞縞俱楽部の他にもいくつか草の根BBSに登録して参加していました。そのすべては挙げてもキリがないし、そもそも覚えてもいません。当時のターミナルソフトの設定ファイルとか残ってればよかったんですが、いつの間にかどっかにいってしまいましたねぇ。
いくつかの中でどうしても挙げておかなければいけないのは、我らがFTZ-net。FTZというのは私も参加していたコンピュータサークルです。正式名称はFinal Tear Zと言います。実力派プログラマーの集まったサークルなんですが、なぜかそこに私のようなネタ要員も参加してたんですね。で、FTZでも草の根BBSを開設しようということになって出来上がったのがFTZ-netです。できた当初はFTZのメンバーだけでしたので、まさに身内BBS。内輪ネタでひたすら盛り上がってました。楽しいのは自分たちだけなんですけどね。まあいいじゃないですか。その後、実力派メンバーが勧誘してきた腕利きプログラマが集まってきて、技術系BBSとして盛り上がっていきました。私は相変わらずネタ要員として参加してただけですけれども。こちらではBLACK FTZの同人活動の打ち合わせなども専用ボードでやってましたので、そういう意味でも毎日のように入り浸っていたものでした。
草の根BBSについてはこのくらいにして、その他の思い出話も。まずモデムです。1200bpsで始めたわけですが、これではさすがに遅くて辛い。夏休みにコンビニでバイトして、ついに買いましたよ2400bps MNP5のモデムを。メーカーはアイワだったと思います。当時、アイワとオムロンがモデムメーカとして主流でしたが、アイワは電源内臓タイプなので熱で故障しやすいと言われていたような気がします。でもアイワの方が安かったのでアイワにしたんだったと思います。そういえば当時のオムロンのモデムはMNPのレベル違いで複数モデルがあったけれどハード的には全て同じだったので、上位モデルのROMの内容をコピーして下位機種に挿せば上位モデルとして使えるという話があったような。ああ、あくまでも聞いた話です。聞いた話ですよ。
モデムで聞いた話としてはデジットモデム。デジットというのは日本橋にあるジャンク屋さんですね。こちらに廃棄になった基板だけのモデムが売ってました。廃棄時に基板に穴を空けて使えなくなっているのですが、部品を避けて穴が空いているので結線だけしてやればモデムとしてちゃんと使えるという。新品のメーカー品を買えば数万円するモデムが3000円程度で手に入るということで人気だったという話を聞いたことがあります。聞いた話ですよこれも。
電話回線にはパルス式とトーン式の2種類があります。トーン式はダイアル速度が速いので後述するリダイアル競争で有利なんですが、トーン回線にするにはNTTにオプション料金を支払ないといけません。月400円だったかな。貧乏学生にそんなお金があるわけがありませんので、当然にみんなパルス式を使ってました。たまにトーン回線にしてる人がいると、このブルジョアめと罵られていました。そんなことで罵るのもどうかと今なら思いますが。
話が逸れましたがパルス式です。じーこ、じーこと電話をかけるタイプの回線ですね。トーン式はピポパとかけるタイプです。パルス式の回線でモデムがダイアルするにはリレーという装置を使うのですが、連日のリダイアルで酷使するとこのリレーが壊れてしまうことがまれによくありました。モデムで一番脆弱な部品ですね。しかしリレーが壊れたくらいで高価なモデムを買い替えるわけにもいきません。ということでモデムをばらしてリレーの型番を調べて電子部品売ってる店に行って買ってきて自分で交換するのでした。あれ、書き出してみたけど大した話じゃないな。まあいいか。
電話回線についても少し書いておきましょうか。当時は電話料金は完全従量制で定額制などありませんでした。市内通話は3分10円。市外通話は距離に応じて高くなります。なので極力近くのBBSにアクセスすることになるわけで、本来なら地理的制約を受けないはずのパソコン通信が地域ごとに固まって形成されていたのは、この電話料金の問題が大きいでしょうね。もちろん、お金か気力のどちらかがある人は東京など遠方のパソコン通信に毎月もの凄い額の電話料金を支払ってアクセスしていたわけですけど、貧乏学生(何度目w)の私にそんなお金はありません。ですのでアクセスしていたのは市内か隣接地域のパソコン通信だけになります。
3分10円ですが、毎日アクセスしてますし、複数のパソコン通信ホストを訪問してますから、結局は月に数万円程度の電話代になったりします。貧乏学生(しつこい)には大金ですから、支払えなくて電話が止まることもしょうっちゅうでした。しばらくしてバイト代が入ったらNTTまで支払いに行って回線が復活するなんてことを繰り返してました。今なら信用情報毀損して借金できなくなってしまってるところですかねぇ。
電話代を安くする方法がないわけではありません。のちにはテレホーダイとかエリアプラスとかのサービスも出来ましたが、この頃はまだそんなものはありません。でもそんな時代にもあったのは深夜割引。23時から翌朝8時までは4分10円で通話できるのですね。ですので、23時になるとみんな一斉にダイアルしますのでリダイアル戦争が活発になります。ずっとリダイアルを続けて、ようやく繋がったら日付が変わっていたなんてしょっちゅうです。
そもそもなぜリダイアル戦争になるのか。それは草の根パソコン通信ホストの場合、回線数が非常に限られるからですね。そもそもホストプログラムでも、よく使われていたWWIVなどは1回線にしか対応していませんでした。複数回線対応してるホストプログラムもありますが、複数回線対応するには当然ながら電話回線がそれだけ必要になります。草の根パソコン通信ホストを運営している人も所詮は趣味でやってるわけですから、趣味のためだけに電話回線を追加で引けるほど、みんながみんなお金持ちではありません。受信専用ですから通話料はゼロでも基本料金と電話加入権は必要ですからね。基本料金も受信専用なら通常よりも安くなったかと思いますが、それにしても毎月負担するのは大変なことです。
ということで、大抵の草の根パソコン通信ホストは1回線で運用されているわけですから、誰かが接続していると他の人は接続できません。回線が空くまでリダイアルするしかないわけで、これがリダイアル競争になるわけです。回線が解放された瞬間を狙ってダイアルしないと、また次にいつ回線が空くか分からないわけでからね。
リダイアル競争が激しくなってなかなか回線が繋がらなくなると、それを不満に思う人も出てきます。そもそも、パソコン通信の利用スタイルとしてはオンライン派とオフライン派があります。オンライン派は回線を接続して、メニューから都度コマンドを選んで記事を読み、その場で返信を書いたりします。一方オフライン派は全ての記事を一斉表示させてログに保存して回線を切り、オフラインでゆっくりと記事を読みます。このオフライン操作のためにターミナルソフトのマクロを書いて自動操縦されることもありました。オートパイロットと呼んでいましたね。
オフライン派は当然に回線に接続してる時間が短いです。当人にとっては電話代を節約する手段ではあるのですが、回線をあまり占有しないということで他の利用者にとってもありがたい存在だったんですね。それだけならよかったのですが、今度は矛先がオンライン派の人に向かっていきます。つまり、オンライン派の人がオフライン派に転向すれば、それだけ回線を有効に使えるようになるんじゃないかという話です。これをビジー論争と言い、当時の草の根パソコン通信ではホットな話題の一つでした。と他人ごとのように書いてますが、当時私もこのビジー論争で暴れてたことがありまして、正直若気の至りで恥ずかしい限りです。当時迷惑をかけた皆様ごめんなさい。こんなところで謝ってもしょうがないですが。
そんな感じで、学生時代のほぼ全ての期間とパソコン通信に入れあげていた期間が重なっています。更には同人ソフト作ってた時代も重なってるんですが、それはまた別の機会に語ることにしましょう。社会人になって学生時代に比べるとお金に余裕が出来たので、憧れだった NIFTY-Serve のアカウントを取りました。支払いのために必要なのでクレジットカードもこの時初めて作りましたよ。在籍確認で会社に電話かかってくるので、同僚に変に思われないかドキドキしたものです。変に思うわけもないんですが。
NIFTY-Serve に繋ぐようになったのは1990年代前半ですので、まだインターネットブームもやってきておらずパソコン通信全盛期でした。中村メールは私も受け取りましたよ。ニフティの役員の中村さんが NIFTY-Serve の新規会員全員にようこそメールを送ってたんですね。当初はほんとに1通ずつ手作業で送ってたそうですが、私がアカウント取った頃は自動送信になっていたそうです。それでも返事があった場合には中村さんがちゃんと対応していたそうなんですけどね。私は返事書いたかなぁ。覚えてないや。
NIFTY-Serve で入ってたフォーラムはバイク関係の FKEN と FCOMIC だったかな。名前はかなりあやふや。バイクのフォーラムはその後 FBIKE ってのも出来たんですよね。なんで同じテーマで二つあるんだってのが一般ユーザからすると疑問なんですが、NIFTY-Serve のフォーラムって作りたい人がいれば作れるんですかね。もちろん誰でもってわけではないですが。こんなフォーラムを作りたいって申請して許可が下りれば作れる。そしてフォーラムのアクセス数に応じてフォーラム主催者には報酬が支払われる。人気のあるフォーラム主催者は今でいう YouTuber みたいに大金稼いでいたとか。あんまりよく知りませんが(なら書くなよ)。
そうして数年は NIFTY-Serve と草の根パソコン通信を楽しんでいましたが、時代はインターネットです。一応補足しておくと、インターネット自体は学生時代に研究室で触れたことがあります。fj とか読んでました。ただし、UUCP による接続のみだったので、ネットニュースとメールくらいしか使えてませんでしたね。帯域が狭いですからメーリングリストとかにもあんまり参加しないようにと言われてましたし。もっとも、専用線で繋がってもまだあんまりアプリケーション無かった時代なんですよね。WWW の発明前ですから。よその大学のシステムにアカウントあれば telnet で繋がれて便利ですが、そんなアカウントも持ってませんでしたし。
商業プロバイダが登場したことで、そんなインターネットに自宅からでも接続できるようになりました。最初に繋いだのはいつだったかなぁ。プロバイダはリムネットを利用してました。Windows 3.1 に Trumpet という TCP/IP スタックをインストールして繋いでましたね。Windows 95 は発売前だったのか、発売されてたけどまだ乗り換えてなかったのかは記憶が定かではありません。
ともあれ、自宅からインターネットに繋がるわけです。この頃には28800bpsのモデムを使ってたかなぁ。回線代は自分で支払いますので、今度はメーリングリストも加入し放題です。また、WWW も登場していますから、あちこちのサイトを見に行ったりもしていました。そのうち自分でもサイトを作ったのが、このサイトですね。1997年の秋ごろに立ち上げたんだったような気がしますけど、記録は一切残っていませんので確かなことはわかりません。
インターネットに繋ぐようになってもパソコン通信はしばらくは続けていたと思いますが、世間的にもパソコン通信からインターネットへの移住が進みましたので、自分も自然とパソコン通信からは足が遠くなっていってしまいました。最後にどこに繋いだかなんて全く覚えてないですねぇ。その時にも、これが最後だとは思ってなかったのかもしれませんが。