なぜ日本のマスコミは「マスゴミ」と呼ばれるようになったのか - 「調査報道」が注目される本当の理由
調査報道は大事だよというお話。それはわかるんですよ。権力の監視機構としてのマスコミの役割は大事だと思います。ただ、マスコミや調査報道を手放しで礼賛するのはどうかなと思ったりもするんですよ。
一つは、調査報道にも間違いがあるということ。パッと思いつくところではHPVワクチン報道。マスコミによって火がついて、日本ではHPVワクチン接種はほぼゼロになった状態が今も続いています。「我々の仕事は報じることであって、それが真実であるかどうか判断するのは社会の仕事だ」とジャーナリズム無罪を唱えられるとちょっと困ってしまう。もうちょっと自分のしでかしたことに責任持ってくださいよ。もっとも、だからって報じた記者を罰したいとも思わない。それはそれで報道の委縮に繋がる。ただ、せめて間違っていた時には間違いをただす報道もして欲しいなと。時々週刊誌が間違い報道をやらかして裁判で負けてますけど、マスコミが間違えるたびにいちいち裁判にまで持ち込まないといけないのでは社会的コストが大きすぎる。間違ったら反省して正す。報じるものとして、それくらいの矜持は持って欲しい。
もう一つは、リンク先記事では報道の中立性についてあまりにも無垢に信じ切っていること。そりゃ中立であることが理想ではあるんですけれど、記者だって人間ですし、自分なりの思想信条があるのは当然のことです。だから中立であろうと努力するのはいいけど、でも完全に中立になり切ることは原理的に不可能であると自覚しておく必要はあると思うんですよ。常に自分は今中立であるかどうか問い続けて欲しい。俺はジャーナリストだから自動的に中立なはずであると思考停止しないで欲しい。
そのうえで、中立でない報道ってのはそれはそれであっていいと思うんですよ。だいたい、調査に取り掛かるきっかけにおいて、なんらかの思想政治的な思惑が無いはずが無い。水俣病を報じたときに「大企業は社会悪である」という思想が一片も無かったとは思えない。だから別にそれはいいんですよ。ただ、記者名は記名して欲しい。そうすれば報道を受け取る側はこの人は過去にこういう記事を書いているからこういう傾向があるだろうと判断することができる。調査にあたって記者の身元を明かせないなら、せめてデスクなりその記事に責任を持てる人の名前くらいは公開しておいてほしい。それがトレーサビリティってものでしょう。