芸術を殺したのは誰か

2019/3/17作成

少し前の話題ですが、会田誠さんという芸術家の方の公開講座を受講した女性がセクハラにあったといって訴訟を起こしたというニュースがありました。 セクハラといっても一対一でどうこうではなくて、講座の内容が非常に猥褻であったということらしいんですね。 要するに「芸術か、ワイセツか」というのが一つの論点と言えるかな。 この論争自体はもう太古の昔から繰り返されているものですよね。

で、これに関してこのような記事を読みまして。

私も会田誠先生の講義を受講しましたが・・・?

要約すると、会田誠さんの公開講座は非常にすばらしいものであって、芸術を理解する素養があれば問題視するものではない。 提訴した女性は芸術の素養が無く芸術を語る資格が無い。 そのようなものが後進の芸術を学ぶ場を奪うことは許されない。 といったところでしょうか。

内容としては筋は通っていますし、私も納得のいくところではあります。 芸術論としては多分正しいと思います。 芸術というのは人間の喜怒哀楽を含むすべての感情を取り扱うものであって、そこには快も不快も含みます。 くだんの女性はおそらく芸術を喜や快の面しか見ていないため、不快や怒や哀などを取り扱うことを理解できなかったのではないかという推測は理解しやすいです。

ただ、ここで気になるのは、ではくだんの女性を叩いて口をふさぐことが果たして正しいのかどうかということ。 芸術を理解してない人が芸術を理解してないままに発言する自由はあるはずです。 そこで口をふさぐことは言論の自由に反する。 芸術素人がピカソの絵を見てわからないと言うとか、ゴッホの絵を見て汚いという自由はあってしかるべきです。 会田誠さんの作品を見てワイセツという自由もあるべきです。

また、健全な市民社会では提訴の自由もあるべきです。 どのような荒唐無稽な提訴理由であろうとも裁判所は受理して審理しなければなりません。 ただし、法律に基づいて審理されて大抵はまっとうな判決が下るでしょう。 なので、荒唐無稽な提訴は最終的には社会に取り入れられません。 そのような荒唐無稽な裁判を行うのはコストのかかることですが、健全な自由社会を維持するために必要なコストです。 あ、念のために言いますと、本人が荒唐無稽であると思っているとか、提訴の目的が業務妨害であったりとかであれば、それ自体が犯罪ですからね。 なので弁護士の大量懲戒請求とかは違法です。

ということで、くだんの女性は芸術を理解していないとしても、芸術を理解しないままに自由に発言することも、自由に提訴することができます。 それが健全な社会です。

では問題はどこでしょうか。 それは大学側の対応だろうと私は思います。 公開講座を行うというのも一つの表現活動です。 表現は自由ですが、その自由には批判を受ける責任が伴います。 発言の自由や芸術の自由と同じですね。 会田誠さんは作品がワイセツであるという批判は繰り返しされているでしょうし、その批判を受ける覚悟で作品を発表なさっていると思います。 また、くだんの女性には会田誠さんの作品がワイセツだと発言する自由はあるけれども、その発言に対して批判を受ける責任はある。 リンク先の記事とかこの記事も批判の一つですね。

同じロジックで大学は公開講座を開催する自由と並んで、公開講座に対して批判を受ける責任があるわけです。 その批判には今回のような提訴も含むわけですね。 なので大学は提訴に対して芸術論に基づいて堂々と対決するべきであった。 公開講座を開催するということはそこまでやるべきだった。 ところがリンク先の記事の方が個人的に聞いた話としては、大学は公開講座を取りやめるという対応をしたそうです。 大学は芸術を守ることを放棄したわけです。

リンクした記事では、くだんの女性が芸術を殺したと批判していますが、実際には芸術を殺したのは大学なのではないかと私は思うわけです。 ま、実際のところとして、その大学の判断もわからないもでないのですけどね。 公開講座を行うと多種多様な人が受講する。 その全員が芸術を学ぶ素養と覚悟を持っているとは限らない。 そうしたライトな芸術ファンに対して、コアな芸術論の講座を行ったところで今回のような混乱を巻き起こすだけである。 ならば今後の公開講座は無難な表層的なものに納めておこうという判断は、組織のリスク管理として十分に納得のいくものです。 例えばですが、今回の提訴が公開講座の受講生ではなく、正規の美大生から行われたものだとしたら、大学は徹底的に戦ったのではないかと思います。 だって、そうしないと本当に芸術を殺すことになってしまいますから。

まとめますと、不見識な人が不見識な意見を述べる自由はあるべきです。 しかし、その不見識な意見を最終的に社会に取り入れないという機能は社会の側にあるべきです。