動物虐待は罪なのか

2019/1/5作成

匿名ダイアリーじゃないとこんなこと言えないけど、

匿名ダイアリーでなかなか面白いテーマをみつけましたので、ちょっと考えてみたいと思います。

匿名ダイアリーの主張は、動物を虐待してはいけないのに、ゴキブリやドブネズミは殺してもいいのか。その境界線はどこにあるのか、という疑問。 という感じのまとめでいいかな。

実はこの疑問ってすごくもっともで、この疑問を論理的に突き詰めて考えると「全ての動物は殺してもいい」か「全ての動物は殺してはいけない」のどっちかになるんですよ。 とても極端な考え方のようですが、例えば仏教は後者の考え方を取ってますね。すべての殺生を禁じています。 私が知らないだけで、他にも全ての殺生を禁じてる宗教や社会はあるでしょうし、全ての殺生を許してる宗教や社会もあるでしょう。

ただ、現実の多くの社会や宗教では上記ほどには極端にはなっていません。 大抵は一部の動物については殺生を禁じているけれど、ほかの動物は禁じてなかったりします。 宗教ではヒンドゥー教では牛を殺してはいけなかったりします。

宗教に起因するものは、その宗教の教義の中で殺してよい動物とよくない動物の区別が理由づけられているわけですが、これが社会的に決められているものとなると、理由が明白でなないように思います。 言ってしまえば、気持ちで決まってる。

牛や豚は多くの社会では殺して構わないです。 なぜなら食料として有用だから。 犬や猫は多くの社会では殺してはいけません。 なぜなら可愛いから。 もしくは、一部の犬は役に立つから。

しかし、犬を殺して食べる文化も世界にはあります。 現代では主に韓国を始めとする東アジアの一部ですが、かつては日本を含む広いエリアで犬食が行われてたそうです。

近年、韓国の犬食は野蛮な文化であるから廃止しろという圧力が欧米からかかるそうですが、その構図って鯨食する日本に対する構図と全く同じなんですよね。

動物の殺していい、殺してよくないの線引きは宗教や社会によって変わるのですが、時代によっても変わります。 例えば、ウサギはかつては日本でも食べられていたそうですね。 獣肉が禁止されている中でウサギを食べるために、一羽二羽と数えるこれは獣ではなく鳥だと言い張っていたと言われてるくらいですから。 しかし、現代日本ではウサギ肉はあまり食べられないです。 一方で、ウサギ肉はフランス料理などではメジャーな食材ですので、おそらくフランス国内ではどのレストランに行ってもメニューにウサギ肉が載っているでしょう。 先ほどの犬食や鯨食と逆の構図になるのですが、日本や韓国がフランスに対してウサギを殺すなと言ったらどうなるんでしょうね。

結局ですね、社会が殺していい動物かよくない動物かってのは気持ちで決まってるんですよ。 もしくは、この件については宮崎駿が「風の谷のナウシカ」で明瞭な回答を述べてますね。 テトが死んだシーンでナウシカに「あなたは親しい友の死をその身体の大きさで量るのですか?」と言わせています。 つまり、その動物を殺していいかどうかは、その動物を大切と思うかどうかの気持ちで決まるわけです。 その基準は生物種で決まるとも限りません。ウサギ肉を食べるフランス人も、自宅でウサギをペットとして飼っていれば、そのウサギは殺さないでしょうね。

ということで殺していい動物とよくない動物の区別は気持ちで決まってるわけですが、その社会なりの歴史を踏まえたうえでその区別は共有されています。 そのうえで、その社会で殺してよくない動物を殺すということはどういうことかというと、二つの可能性があります。

一つは社会のルールをそもそも理解できないパターンですね。人間は社会性の動物ですから、社会のルールを理解出来ない人とは共同生活を送ることができません。 なので、このような人はなんらかの方法で社会から排除されることになります。

もう一つは、社会のルールを理解したうえで、社会に対する反逆としてわざとルールを破るパターン。 こちらも結局は社会のルールを守らないので共同生活を送ることができず、社会から排除されることになります。