桑原武夫氏の蔵書1万冊廃棄 京都の図書館、市職員処分という記事を見ました。ざっくりと要約すると、著名な文学者である故桑原武夫氏の遺族が図書館に寄贈した図書約1万冊が廃棄されていたということです。
廃棄は誤って行われたわけではなく、図書館の副館長が指示したことだそうです。多くの人はこの記事を読んで、副館長を非難したのではないでしょうか。実際、ネットではそういう声を多数見かけました。私も当初は同じように思いました。その副館長が貴重な書籍に対して理解が無くて、とんでもない焚書行為をしてしまった愚か者だと思いました。が、よくよく考えるとそうとも言い切れないのかなという気もしてきましたので、少々書き記してみます。私の断片的な知識による一般論ですから、今回の件もそうであるとは限りませんけれどね。
きっかけは自分自身の書籍の処分を考えていた時です。著名な文学者でもないんでもない、ただの本好きのオッサンの蔵書ですから文化財的な価値はゼロに近いでしょうけれども、もしかしたらほんの少しでもあるかもしれない。価値がある可能性もゼロではないし、そもそもとして本をゴミとして処分してしまうのも忍びない。古書店に売っても二束三文にしかなりませんので、あまり嬉しくない。そう考えた時に、図書館に寄贈したらいいんじゃないかなという気がしたのです。どこの自治体だって財政は苦しいですから、図書館だって裕福ではないでしょう。書籍を購入する予算も足りなくて困っているかもしれません。そこに、文化財的価値はないかもしれないけど、多少なりとも書籍を寄贈することで役に立つならいいんじゃないかなと思ったんです。それで、実際にどうなんだろうと少しぐぐって調べてみたところ、どうやらそんな甘いものではないようだぞということが分かってきました。
まず現実問題として、図書館に寄贈された書籍のかなりの部分は貸し出しに回ることもなく永遠に倉庫に眠るか、廃棄処分されるかになります。なぜなら、寄贈された書籍を調査して貸し出しできる蔵書にしてしまえるだけのマンパワーが図書館には無いから。
調べてた時に知ったのですが、書店から図書館に本が納品されるときには、一緒に書誌情報のデータも渡されるのですね。このデータを蔵書管理システムにインポートすれば、システム的な受け入れは完了です。実に簡単ですね。しかし、市民から寄贈された書籍にはそんな書誌情報データなんてありません。となると、司書さんが一冊ずつ書誌データを調べて、手作業で入力していくしかありません。それを、寄贈された何百冊何千冊もの本に繰り返すのです。例えば書誌情報の調査と入力に1冊10分かかったとします。一人の司書さんが1日8時間働いて48冊しかデータ入力できません。1万冊の寄贈があったとしたら、200人日の司書さんの労働力が費やされることになります。つまり、年間1万冊の寄贈があった場合、一人の司書さんが寄贈本の受け入れのためだけに年間を通して専任で働かなければなりません。当然ですが、そんな寄贈本対応専任の司書を置いておける余裕のある図書館なんて日本中どこを探してもありません。
書籍の受け入れには書誌情報の入力だけではありません。カバーをかけたり蔵書印を押したりなどの作業があります。ちなみに書店から買う場合は、書店がサービスでこれらのことをしてくれることもあるそうです。それは書店の店員側がブラック労働チックではありますが、まあそれについてはここでは触れますまい。ともかく、寄贈された書籍の管理には書店で購入する書籍よりもはるかに人手がかかり、その人手を確保できる図書館なんて日本中どこにもないということです。結果、寄贈された書籍は蔵書となることなく廃棄されてしまうのです。倉庫に積んでおくにも、倉庫スペースも有限ですしね。
さて、せっかく寄贈しても蔵書されることもなく廃棄されます。そうすると、寄贈した人は怒りますよね。当人としては少しでも文化の役に立ちたいという善意で寄贈したのにも関わらず、その思いが踏みにじられるわけですから。まあ、怒っていいと思いますというか、感情としては非常によくわかります。わかるのですが、それで苦情が入っても困りますので、書籍の寄贈を受け付けていない図書館もあるようです。まあ、そういう判断になりますよね。ちなみに、文化の役に立ちたくて図書館に何かをしたいのなら、使途を図書館に指定して現金で寄付するのが一番だそうです。そりゃそうですね。
冒頭の桑原武夫氏の蔵書の場合、これまで書いてきたような読み古しのベストセラーなんかの寄贈本とはまったく本の質が違います。しかし、受け入れ側の手間の点では全く一緒です。1万冊の蔵書の寄贈を受けるなら、本来なら受け入れ側の図書館にプロジェクトを立ち上げて、予算と人を付けるべきものなんですよ。それを、通常業務の片手間でやりなさいということになるので、受け入れがいつまで経っても終わらない。これは何も桑原武夫氏だけの特殊な事件ではありません。寄贈した書籍が何年経っても倉庫に積みっぱなしなので、遺族が寄贈を取り消して引き取ったというニュースを以前みたことがありますので、似たようなことは全国どこででも起こっているのでしょう。
となると、悪いのは予算を付けない自治体でしょうか。廃棄を指示した副館長ではなく自治体を責めればそれでいいのでしょうか。それも違いますよね。予算を付けない理由はどこの自治体も今どきとっても会計が大変でそんな余裕がないというのが一つ。もう一つは、公務員は無駄な存在であり、数を減らし、給料を減らすべきだという市民の声になります。そう言われてる状況で、寄贈書整理のための司書さんを専任で雇えるかというととても雇えないですよね。
ということで、結局は民衆の程度に合わせた政治・行政が行われているということで、この結果は国民が選んだことなんだろうと思うのです。もちろん、その国民には私も含まれているわけで、それをどうしたらいいのだろうかと考えるわけです。
あと、これももしかしたら専門職に対する無理解・軽視によるものかなぁという気もします。書籍がある。自分では価値がわからない。それを調べるコストを負担するつもりもない。社会に対して公開するように整備する気も無い。そこにお金をかけるつもりもない。でも書籍を捨てるのはもったいない。そうだ、公共の図書館に寄贈すれば自分はコストを負担することなく社会に貢献できるんだ。という考えです。書籍を寄贈しようとしている人がみんながみんなこう考えているわけではないとは思いますが、結果としてこうなっている面は否定できないような気がします。
寄贈されれば、確かに図書館側は書籍を購入する費用は節約することが出来ます。しかし、書籍について調査し、評価し、維持管理するというコストは寄贈者は負担してくれません。そこにもコストはかかっているのに。貴重な書籍が含まれているかどうかの調査を自分でする気はないけれど、司書にやらせれば自分はただで済む、ということを言っているのに等しいのではないかとも思うのです。
身内が膨大なコレクションを残して死んだとします。そのコレクションを廃棄するのはもったいないし散逸させるのも忍びない。では自分で私設図書館を設立して来館者に閲覧させたり貸し出したりするとしましょう。コレクションを有効活用したいなら、それでもできますよね。しかし、それには莫大な費用がかかります。初期費用が安く済んでも多分数百万。毎年の維持費用も数十万程度はみておかないとダメでしょう。これは自宅の一部で運営して職員を遺族が自分で行う場合ですから、建物を借りたり職員を雇用するとしたらその何倍もかかります。故人の業績をたたえて遺品を有効に活用したいなら、それくらいのコストを払えばできるのです。でも遺族はそれを負担しない。寄贈することで、費用の一切を行政に負担させようということなんです。なんかすごく言葉が悪くなってしまいましたが、現実としてそういう見方をすることは可能なんですよね。その根底にあるのは、司書という専門職に対する無理解と、そこにかかるコストの軽視ということで。これも、根深い問題だなぁと思います。