「博士の愛した数式」小川 洋子

2007/8/18作成

結構ヒットしたし映画にもなった有名な本ですね。博士、私、ルートの心のふれあいを描いた感動のストーリー。なんですが、実は私はこの手の心のふれあい系小説って苦手なんですよね。別につまんなかったわけではないんですが、読んで「ああ、いいお話ですね。まる」で終わってしまうと言うか。だったら別に読まなきゃいいんだけど、それでも読んだのはもちろん数学・数論が大きく取り扱われているから。

一応、数学・数論ファンを自認している私としては、数学ネタの一般小説があるという事自体がすごい。しかもそれがヒットしたというのはもっとすごい。これをキッカケに数学に興味を持つ人が増えるといいなと思うし、そこまでいかなくても数学に対して多少なりとも世間での理解が進むといいなぁとも思う。そういう意味では筆者は数学界に対してすごく大きな仕事をした可能性もあるんじゃないだろうか。

本書を読んですごいなと思うのは、数学をちゃんと理解して書かれていること。それも単に勉強として理解しているだけじゃなく、数学が好きな人がこういうのが好きだったり美しいと感じたりする点をきちんと描いている。これは多分筆者自身が相当に数学の事を好きでないと書けない。もし本書を書くための取材を通してここまで数学を好きになったんだとしたら筆者はほんとにすごいなと思う。

一方、気になるのは博士の脳の障害について。結論としては、言っちゃ何だがストーリー上の都合のための設定にすぎないわけだから矛盾があったところで別に構わないと言えば構わない。それでも気になってしまうのは、私はどちらかというと設定を読む読書をするタイプだから。

博士は47歳のときに遭った交通事故の後遺症で記憶が80分しか持たない。だから私がお使いにでて80分以上経って帰宅するとはじめましてからやり直しになる。それはいい。では出かけずに家の中で過ごしている場合に80分以上経ったらどうなるんだろう。小説の中ではこの場合には普通の人と同じように過ごしているけど、やはり80分より前の記憶は消えてしまうんだから、80分以内おきに自己紹介をやり直してないとやっぱり「あんた誰?」にならないとおかしいと思うんだけど。

それよりもっと不思議なのは、博士は毎朝47歳の事故の翌日として起床する。そして自分の書いたメモにより自分の障害を初めて知ると言う絶望を毎朝繰り返す。これはよくわかる。自分の障害を知った博士は、今の自分を47歳として認識するのだろうか。だとしたら64歳の老人と化してしまった自身との矛盾はどうするのだろう。何より、事故まで勤務していた研究所に出勤しようとしないのはなぜだろう。これらの点から考えると、博士は障害について知るとともに、自身が研究所を退職し17年経った老人である事も認識するのだろう。だとしたら、なぜ博士は「今日は江夏は登板するだろうか」などと言うのだろう。新聞紙上でしか野球を知らない博士だが、事故に遭うまでは普通の人だったわけだ。まさか17年間もずっと江夏が現役の投手であるなどとは考えないだろうと思うのに。

物語の最後では博士は障害が進み、ついには1分も新たな記憶が出来なくなる。これは私の勝手な想像だけど、思考するためには現在を記憶する記憶力が必要になると思っている。だから、完全に新たな記憶が出来なくなった博士は思考自体が出来なくなるんじゃないかと思うんだが。しかし、博士は普通に会話をし、時にはルートとキャッチボールを楽しむなど、まったくもってそれまでと変わらない風である。

つまるところ、博士の障害というのは現実にあるものなんだろうか。それとも筆者が創作の都合上作り出した作り物なんだろうかというのが気になるわけです。誰かその辺のところを説明してたりしないかなぁ。

(2007/8/23追記)

とある方に教えていただいたのですが、博士の障碍はデボラ・ウエアリングという方がモデルになっているそうです。デボラ・ウエアリングさんは記憶がなんと7秒しかもたない。博士よりはるかに大変。