「プロレス至近距離の真実―レフェリーだけが知っている表と裏」ミスター高橋

2007/4/3作成

新日本プロレスの元レフェリーである筆者がレスラーたちの素顔を書いた本。

少し前にモーニングに「太陽のドロップキックと月のスープレックス」という作品が連載されてました。プロレスはアングルという筋書きに沿ったショーであるという内容の作品で、結構面白く読んでました。この本は似たテーマだなぁと思いながら読み進んでましたが、それもそのはず同じミスター高橋氏によるものでした。せやったんか。

私が子供の頃は、ゴールデンタイムに古館伊知郎氏が絶叫しながらプロレスの中継があり、男の子は休み時間になると必ずプロレスごっこに興じていました。そういうプロレス好きだった人なら、当時の裏話として本書は興味深く読めたんでしょうが、残念ながら私はプロレスは興味がなかったのでそうはならなかった。本書で紹介されているレスラーも大半は名前も知りませんでしたし。それでもまあ、裏話としてそれなりに面白くは読めました。ミスター高橋氏がボディチェックをしながらヒール役レスラーの凶器を見逃してしまうのを、銭湯で近所のオヤジに「おまえの目は節穴か」と叱られるところなどは微笑ましい。

本書を読んで考えさせられたのは、果たしてエンターテイメントとはなんだろうということ。前述のオヤジを始め、当時プロレスを観ていた人はプロレスを筋書きのあるショーとは考えていなかった。真剣勝負と思い観戦していたはずだ。いやまあ、当時からプロレスは八百長という意見はあったことはあったけど、多数派の意見ではなかったと思う。しかし、当時の人たちに「プロレスは実は八百長なんです」と暴露したら、誰もプロレスを観なかっただろう。八百長と指摘していた人たちだって、そうは言いながらももしかしたら真剣勝負かもしれないという思いがあったんじゃないかと思う。つまり、当時のプロレスは真剣勝負と見えるからこその観戦の価値があったわけだ。真剣勝負だから面白いというのはプロレスに限らず、スポーツ全般に言えることだろう。八百長ですよと言われれば、プロ野球だってサッカーだって誰も観ないだろう。

では真剣勝負ではなく筋書きがあるものはすべて鑑賞に耐えないかというと、そんなことはない。例えば映画にしても芝居にしても、そこで行われている劇が真実とは誰も思っていない。でも、楽しく鑑賞しているわけだ。このことから、真実であることとエンターテイメントが成立することは直接は関係しない。

ではプロレスが真剣勝負ではないんですよと明かした上で、ショーとして楽しんでくださいと言われて興味を持てるかというと、私には持てない。私はやっぱり「八百長と指摘しつつも、もしかしたら真剣勝負かも」と思っていた類いの人なわけだ。そこの違いはどこにあるんだろう。映画や芝居はフィクションでもエンターテイメントとして成立し、プロレスは成立しない。正確にはこの設問も間違っている。プロレスが八百長であると明かされて以降も、今でもプロレスファンはたくさん居る。その人達はフィクションでもプロレスをエンターテイメントとして受け入れているわけだ。どうして彼らは受け入れられて、私には受け入れられないんだろう。果たして、エンターテイメントをエンターテイメントとして成立させている要素とは何なんだろうか。